
十五神社
ご祭神
天之常立尊(あめのとこたちのみこと)、国常立尊(くにとこたちのみこと)、国狹槌尊(くにさづちのみこと)、豊斟諄尊(とよくんぬのみこと)、壁土煮尊(ういぢにのみこと)、沙土煮尊(すいぢにのみこと)、大戸道尊(おおとぢのみこと)、大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、神日本磐座余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、若帯彦尊(わかたらしひこのみこと)、応神天皇(おおじんてんのう)
十五座二十柱祀られている ( り神で一座、一対の神で一座あり)十五社神社の社名は十五座祀られている事による。社紋は菊の紋。
創建
創建は大変古く今から遡ること約一二〇〇年前平安時代天長三年(西暦八二六年)五月、今まで晴れていた空が急に雲が湧き起こり、あたりは暗くなり地響のする雷が鳴り響き雨が激しく降り、雹(ひょう)が降り、恐ろしい有様となった。この里の人達は天の神様にお祈りをしました、すると翌朝神社の裏山の「唐松山」の峠の方から威厳有る声がました「私は天之常立命(あめのとこたちのみこと)、国常立命(くにとこたちのみこと)・・・・・・・・神々である、ここに現れたのは、広く国内を守るために現れたのである、里の人達この麓に社殿を建て、南山の麓に寺を建て祀るようにと言って紫の雲と共に天に昇って行かれました、里の人達は早速、京都の美濃守春原朝臣五百枝 (はるはらあそんいほえ)という方にお願いし社殿を建て、その年の九月十九日に天神大明神(あまつかみだいみょうじん)としてお祀りしました、翌天長四年天台寺を建て天神山恵解寺(えげじ)として祀りました、恵解寺はその後土岐氏が大桑に移り住むようになり、現在の南泉寺の場所に移し南泉寺と改め、土岐氏の菩提寺と成りました。
信仰
その後この地方で大和民族と秦氏の争いが起こり、大釜に熱い湯を沸かし熱湯に手を入れて占う盟神探湯(くがたち)の信仰がおこりました。その後は「湯立神事」として、江戸時代まで盛んに行われていました。平成七年復活し現在秋祭りに行っています。県内でも湯立神事は珍しい、その当時は裁主大明神(たちぬしだいみょうじん)として祀られ、美濃の国神名帳に「正四位裁主明神」と記載されているのは当神社です。
その後、新羅三郎義光から八代目逸見又太郎義重は承久の乱(西暦一二二一年)で手柄をたて、大桑郷をいただかれ治めるようになり、大変崇敬しました。お手植えの逸見杉があります。
戦国時代
美濃の国守護大名土岐頼芸大桑に移り住むようになり、源氏の氏神である応神天皇の祀られている石清水八幡宮、等を合祀して、十五社大権現(神仏混合時代の名称)と改称して祀りました、又加藤与左衛門を神主に迎え本殿を改築して土岐氏の氏神として大変崇敬しました、神社の現在があるのも土岐氏の力が大きかったと思われます。奉納の狛犬があります。
江戸時代
元禄十四年(西暦一七〇一)徳川綱吉(五代将軍)により本殿改築が行われた。
江戸時代の終わり幕末の頃、愛知県の津島神社の服部神主を通じて、公家の従三位岩倉具選卿(岩倉具視の曾祖父)に「十五社大神宮」への改称を願い出ました、岩倉卿は大桑の当神社を視察に来られ、加藤家に一ヶ月ほど滞在され、「十五社大神宮」との改称が許されました。神宮は天皇に関わりのある神様が祀られている神社名であり、大神宮は大変立派な神社名であります。現在も称号として一部使用しています。社紋は菊の紋です。